« 自分の腹にM7クラスの激震が走る | トップページ | 中国人のおやつ ヒマワリの種 »

2010年8月16日 (月)

葬式仏教ねぇ

「葬式は、要らない」論以前から、「葬式仏教」という言葉は、使用されていた。

 マスメディアが、「葬式仏教」という言葉を使用していた。

 一方で、スピリチュアル霊能者にテレビ出演・雑誌連載で、好き勝手を言わせ、

 一方で、「葬式仏教」という言葉で、伝統宗教をないがしろにする。

 どういう神経なのか。

 現在、日本の子育ては、困難な大事業に成っている。

 教育評論家・その尻馬に乗ったマスメディアが、教師バッシングを繰り返してきた。

 学校崩壊という言葉で、教師の力量不足を批判した。

 ところが、現在、母親のネットゲーム廃人化・児童虐待・暴走育児・父親の育児不在・モンスターペアレンツと家庭が崩壊しているとつまびらかになってきた。

 地域社会も、崩壊している。

 隣の家庭で、児童虐待がなされていても、児童相談所への通報さえ、なされない。

 子育てにとり、学校よりも重要な役割を果たす家庭・地域社会の方が、崩壊してしまっているのだ。

 スピリチュアルに言えば、

 教師バッシングという悪いカルマを積むことで、

 子育て現場が崩壊してしまったのである。

 そして、スピリチュアルに出来るのは、此処までである。

 現在の子育ての困難をスピリチュアルで解決する事は出来ない。

 学校崩壊・家庭崩壊・地域社会崩壊は、

 それぞれ単独に存在するのではなく、

 縁起の道理で、互いに寄り合い関連し合っている。

 マスメディアが、教師バッシングを繰り返すことで、

 「教育というモノ」全体が劣化してしまったのである。

 そこで、釈勝叡は、「子育てには、宗教が必要である。」と、

 子育てに宗教の知恵を取り戻す事を提案している。

 教育評論家・マスメディアが教師バッシングを繰り返した行いと、

 「葬式仏教」という言葉で、伝統教団を非難する行いは、

 同質の行いである。

 「葬式仏教」という言葉を多用すれば、

 「宗教というモノ」の値打ち・有難さ・価値が低下する事態になる。

 「葬式は、要らない」論が、世に広く受け入れられている事態が一つの証左である。

 日本は、政治三流・経済三流・教育三流。

 さらに、宗教三流の国に成り果てねばならないのか。

 人間の叡智・能力を遥かに超えた大いなる存在がおられる。

 人間の営みを超えた、森羅万象のあまねく存在を統べておられる大いなる存在を、

 神仏と呼び、尊ぶのが、宗教の本質である。

 「葬式仏教」という言葉で、神仏をビクともさせることは出来ない。

 神仏は、大いなる存在であり、人間の言葉くらいでは、揺らぐことは無い。

 しかし、「葬式仏教」という言葉は、日本社会を揺らがせる。

 神仏を尊ぼうとする気風を低下させるのだ。

 人間の発する言葉で、社会が、神仏の有り難味を見失っていく。

 神仏に対する冒涜なのである。

 これが、「葬式仏教」という言葉の現在的意味である。

 神仏を冒涜する者には、罰が待ち受けている。

 「葬式仏教」という言葉の使用者は、そこまで理解出来ているか。

(釈勝叡より)

恥ずかしながら葬式仏教という言葉、はじめて知りました。

wikiなどで調べたりしているうちに、上のブログにたどり着きました。

詳しい事は良く分かりませんが、最近の世の中の嫌なニュース。

例えば育児放棄の件・高齢者不明の件など。

まとめて言ってしまえば、学校崩壊・家庭崩壊・地域社会崩壊です。

こういった事は、普段『何かに感謝する』心が無くなってしまったからなのではないのでしょうか?

ワタシも最近までは『葬式仏教』そのものでした。

数年前、酒井雄哉大阿闍梨と出会った事で、ワタシの人生観は大きく変わりました。

毎日、家にある『お不動さん』に感謝するようになったのです。

そうすると、なぜか今まで『許せない』と思っていた事が『許せる』ようになったりするのですな。

ワタシ自身、その気持ちの変化に驚くくらいですから、神仏に感謝するというのは大切な事なんだと改めて思ったのです。

『許せない』『許せない』『許せない』と自分の中で気持ちを硬くしてしまうと、良い事はひとつもありませんね。

『許す』だけで気持ちがものすごく楽になったのですな。

極小ながらも会社の経営サイドにいると、このご時世よい事(話)はひとつもありません。

そんな中でも『感謝』『許す』それが出来ると、幾分かは気持が楽になるってモンです。

合掌

« 自分の腹にM7クラスの激震が走る | トップページ | 中国人のおやつ ヒマワリの種 »

心と体」カテゴリの記事

コメント

「許す」すべてはここから始まるのでしょうね。
許す心があれば 生かされていることに感謝できる。
感謝できる人は 尊敬されます。

「葬式仏教」は 生き残った者のエゴがなせること。
葬式仏教に救いを求めているのでしょう。
その根底には 許されない思いがそうさせます。

仏教は この世の生き方を諭しています。
仏様は 悟りらを通して苦難から救い取る。

お釈迦様は 弟子たちに怠りなく勤めよと言い残された。
わがままを許すわけではありません。
我を捨てることを「許す」のでしょう。
心を大きく持てば微笑んで優しい言葉をかけられる。
許せば心は清浄、悟れなくても気楽でいられるでしょう。
でも、許せないことが多すぎて困ったものです。
凡夫から脱却したいが葬式仏教が待ち構えている。
逃れられない、何とか自分自身を変えたい。
しかし、周りがそうさせてくれない。
堂々巡りで明らめるしかないようです。


>エスプリさま

お初でございます。

>>しかし、周りがそうさせてくれない。

その通りなんですね。

今の世を生きていると、周りがそうさせてもせれないし、自分自身がそうするのにも限界があります。

最近は生きていく事が『行』なのではないのか?
と思う事があります。

行者に聞かせたら笑われそうですが。。。

色々と思い悩み、試行錯誤しながら生きております。

またお寄りくださいませ~

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/531368/49159730

この記事へのトラックバック一覧です: 葬式仏教ねぇ:

« 自分の腹にM7クラスの激震が走る | トップページ | 中国人のおやつ ヒマワリの種 »